会津 天王寺の縁起
 
 天王寺は元慶2年(883)光孝天皇の時代に、僧・観裕の開創になるものです。

嘉永4年に発行された高田天王寺観音堂再建勧進状には、次のように記されています。

「請テ早ク蒙テ十方檀那ノ助縁ヲ再建シ伽藍ヲ欲スル奉ント安置於会津廿八番札所十一面観音菩薩之尊体ヲ勧進之状」
これを現代文に直しますと次のようになります。

「お願いするのは早くからのことでしたが十方檀那衆の援助を得て伽藍を再建して奉らんと要望する会津廿八番札所十一面観音菩薩の尊体を安置するための勧進状です」

この勧進状から、高田にある田中文庫の古文書には、天王寺の観音像について次のような物語が記されています。

 この尊像の由来を考えるに、人皇58代の光孝天皇が、まだ皇子でおられたころ、人知れず通っておられる女性がおられました。
 その女性のおなかには、皇子の子供を身籠っておられました。このため、世の中を憚って秘かに、お寺に預けて、出家の形を取ったので、このことを知る人は、ほとんどいませんでした。
 このお腹の皇子は、成長して観裕法印と名乗られ、徳が高く、学問にも秀でておられたので、やがて探題、そして貫主として出世され、壇宗徒の信頼も厚いものでした。
 しかし三十歳のあるとき、行基の作った十一面観音像を笈(背負い籠)に収めて、夜にまぎれて、山門を忍び出て、地方行脚の旅に出られたのであります。
 その後何年かの年月が過ぎたとき、この高田の地に来られたのです。
 おりしも、真夏の暑いさなかで、暑さのために冷水を求められましたところ、にわかに、涼しい風が吹いてきて、柳の葉を動かしました。首を回して見てみると、柳のそばにひとつの清らかな泉がありました。
 観裕法印は、この水をすくって飲んだところ、不思議なことに心身が健やかになり、たちまちにうちに暑さを忘れてしまうほどの心地になったのであります。
 しばらくの間、木陰で笈をおろして体を休めているうちに、思わず眠気を催して、草木を枕に眠ってしまわれました。
 そのとき、忽然とえもいわれぬまことにいい匂いが漂ってきたのです。
 笈の戸を開けると、煌煌と光明が四方に輝き、菩薩の像が厳然として現れたのでありました。
 観裕法印は、驚いて恭しく礼拝をされましたところ、菩薩は声高らかに
「爾(なんじ)カ是ヲ飲テ忽心神健カナルハ則是仏性ヲ得タルナリ 此水億万ノ衆生ヲシテ則真如ノ月ヲ観セシムルノ良縁アレハ、吾必ス此ノ所ニ止マルベシ」と言われたのを聞いて夢から覚めたのでした。
 近くの人がいたのでその泉の名を聞いてみると、法性清水と呼んでいるとの答えでした。観裕法印は喜びの余り、近くにいた里人に今見た不思議な夢を物語ったのですが、皆が不思議に思ったのでした。
 そこで、早速この地に仮の草堂を作って菩薩を恩地したのであります。
 その後、遠近を問わず、皆がこの菩薩を信仰しておりましたが、日月を重ねる度に、菩薩の霊験が次第にあらたかであったため、国主さえも深く信仰して菩薩にお参りするようになりました。国主は、この菩薩のために数十町の土地を寄付して、新しく伽藍を造営して、すくそばにはお寺も建て、皇子の縁を鑑み、天王寺と名付けられたのでした。
 その後は、国主の信仰もますます深くなり、年を重ねるごとに寺様も荘厳さを加えてまいりました。元亀・天正(15701590)ころには、七堂伽藍や坊舎を合わせると32もの建物が甍を並べておりました。その様は、金殿は雲に聳え、玉堂は朝日に輝き、衆生の闇を照らすともいわれておりました。
 しかし、天正己丑の役(1590)でこの地方は伊達氏に支配されることになりました。伊達氏はこの高田の地をことさらに忌み嫌い、ある日軍勢とともに押し寄せ、神社仏閣を占領し、寺領社領ともに兵の占めるところとなってしまいました。
 その後、寺に施す人もなくなり、貫主も信徒も命を長らえる手段もなく、住み慣れた寺を捨てて、それぞれが落ちゆく結果となってしまいました。
 そのため、寺は放置され、風雨にさらされ雲に聳えていた金殿は、梟の棲みかとなり、坊舎もキツネやタヌキの棲みかとなってしまいました。寺の軒は傾き、月の光は菩薩の体を照らし、瓦も破れて雨雫に涙が出るような変わり果てた姿となってしまいましたが、誰も修理しようという者もあらわれませんでした。
 ようやく30数年たった元和時代の末(16223年頃)現在の地に小さなお堂を建て、菩薩を移し、以前の土地は古観音堂と呼び、法性水も笹清水と呼び名を変えたのも、世情のあわただしい情勢の変化のためと考えられます。
 その後、この御堂も再建されて荘厳さを取り戻しましたが、文政丁亥の年(1827)池魚の災(思いがけない災難に遭うこと)に遭ってしまいそのから25年、菩薩は草堂に安置している悲惨な状態が続きました。
 壇信徒にしろ、この状態を何とかしようとは思っておりましたが、口に出せないでいました。再建の願いは誰もが持っていましたが、貧窮にあえぐ生活ではおいそれと口に出すこともできません。
 そんなとき、大沼郡下中川の里人で、村野井氏善右衛門がこの御堂が廃墟と化すことを嘆き、再建の志を持って立ち上がりました。妻子には数年の間帰ってこないと告げ、家業を捨て遠いところ近いところを構わず、わずかづつ再建のための浄財を集めて回った。そして3年、ちりも積もれば山となるの諺があるといえども、なかなか思うようには集まらなかった。日々歩き回ったがやはり一人の仕事には限界がある。早い再建を望んでいたか、思うようにならず悲観に暮れて、なすところもなくお手上げの状態であった。しばらくたって、これは多くの方々に力添えを頂かないと、再建の望みは達成できないと考え直しました。
 この観世音菩薩は、不思議なことに今までの大火や災難にも焼失することなく、そのお姿を現在にとどめておられるのは、この菩薩様の大慈大悲の功徳であり、また、洪水の際もその功徳は浅くありませんでした。
 この観音様の現在までの功徳を数えると、一つとして人の世のためにならなかったものはありません。その観音様の恩に報いようとするならば、肉を削り骨を砕くともこの恩に報いなくてはならないと思ったのです。
 これらのことを考えるに、財産をすべて投げ打っても、命を落とすようなことがあっても恩返しできないほどの功徳であると思いました。
 夢の中に出てきた泉のために、体も妻子・親族とさえすべての財産・宝を投げだしてきたものの、孤独なまま閻魔大王の元に行くことが近付いており、この命は、水上の泡のようにはかないものであり、もはや風前の灯火みたいに危ういものです。
 人の世界に生きていれば会うことの難しい仏法にも値するようなことです。
 なにとぞ、ひとときの夢に終わることなく九品の願いを達成したいと思うのを願っております。願わくば、あらゆるもろもろの方々に、この菩薩への勧進をお願いして、ぜひとも観音様の功徳を知らしめていただきたいと、熱心に祈ったのでございます。
 すると、この話を聞いた人々の中に、ぜひとも寄付したいという人たちが大勢あらわれて、たちまちのうちに再興することができたのであります。
 その観音様の慈悲のありがたい霊光は、十方に光り輝き、その報恩によって、多くの方々が功徳を受けられたのは、疑うことのないものです。
と、天王寺別当の肅敬師が語ったのでした。