会津 天王寺の縁起

 会津美里町の天王寺の縁起によりますと、光孝天皇の時代にあたる元慶2年(883)、僧観裕が開創。
伝教大師と論争した徳一が遷化しましたのは、承和年間(834838)とみられており、それを境にして、法相宗が勢い、天台宗の寺が相次いで会津地方に建立されたのでした。
 天台宗の座主が東国出身者で占められた時期とも符合します。とくに、下野出身の三代座主の慈覚大師の影響を見過ごすことはできません。
 天王寺と名づけられたのは、
観裕が光孝天皇の皇子であったからです。光孝天皇は、仁明天皇の第三子で、母親は藤原総継の娘澤子、小倉百人一首に「君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に雪はふりつつ」がとられています。
 
仏道をさらに深めるために、三十歳のあるときに観裕は、行基作の十一面観音像を笈(背負い籠)に収めて都を離れて東国の地を目指したのでした。そして、菩薩のお導きによって、法性清水が湧き出ていた会津高田の地(現在の宮川ホームのあたり)にお寺を建立したのでした。
 年を重ねるごとに寺も荘厳さを加え、元亀・天正
(15701590)ころには、七堂伽藍や坊舎を合わせると32もの建物が甍を並べたといわれますが、それ以降何度も試練に見舞われました。現在の地にお堂を建て、菩薩を移し、以前の土地を古観音と呼んだのは、元和時代の末(1622〜1623頃)になってからです。
 会津戦争でも戦火にあいましたが、檀徒の協力によって、明治23年10月に観音堂が落慶し、現在に至っています。
 第55世住職として勤められているのは、柴田聖寛師。会津33観音の28番の札所にもなっています。
御詠歌は
  むかしより たつとも知らず 天王寺 奥の細道 轟の橋
 轟の橋が今の場所に移る前は法性清水の側に流れていた古宮川に架かっていて、はるか昔から人々の信仰を集めた寺であることを、その御詠歌は教えてくれています。

BGM カムイT ギターオリジナル(長崎出身 福田正二郎氏演奏) 魔笛の主題による変奏曲作品9